83 南風原町にある介護老人保険施設「嬉野の園」の敬老会にて演奏  2011/11/05(土)
82 八重瀬町字新城公民館にて、97歳のお祝い(かじまやー)の司会をしてきました。  2011/10/30(日)
81 沖縄大学にて「琉球諸語の復興を目指して」シンポジウムを行いました。その2  2011/10/29(土)
80 沖縄大学にて「琉球諸語の復興を目指して」シンポジウムを行いました。その1  2011/10/29(土)
79 沖縄県行政書士会へ講演してきました。  2011/10/21(金)
78 那覇市文化テンブス館にて修学旅行生に、珍しく三線も教えました。  2011/10/19(水)
77 那覇市古波蔵の児童館主催「にこにこうんどうかい」に、なぜかゲスト出演!?  2011/10/17(月)
76 第5回世界のウチナーンチュ大会関連、那覇市主催の歓迎会の司会を頼まれました。  2011/10/14(金)


83 南風原町にある介護老人保険施設「嬉野の園」の敬老会にて演奏

写真上は、体育館舞台横から私がゆんたく(トーク)している場面を撮ったもの。
写真下は、体育館後ろから、観客に話しかけているところを撮ったもの。



南風原町にある介護老人保健施設「嬉野の園」の敬老会に出演してきました。唄三線演奏と面白いゆんたくで老人達を喜ばせてくれないかと依頼があり気張(ちば)てぃちゃーびたん(頑張ってきました、という意味)。

頑張りましたけど、結構大変でした。元気のよい老人会などならば、こちらが一つ言えば、三つも四つも返ってくるのですが、ここの施設は上に書いてある通り、介護が必要な老人の為に存在しています。したがって元気がないのは当たり前です。この施設にいらっしゃるご老人の方がたは家族も面倒をみることができない方がほとんどです。だから入所なさっているのです。しかし、こういう施設での演奏は、私、結構過去にやってきたから慣れています。

私がどんなにおもしろい事を言っても、楽しそうに演奏しても、静寂で返される。うーん、そういう時は、湖のほとりで読書を楽しんでいることを思えば良いのです。そう思うとだんだんと楽しくなり、なぜか皆の表情が明るく見えるから不思議です。

ただ、今回は家族の方も敬老会というのでわざわざ付き添いでいらっしゃっていたので、その方達は、結構笑って楽しんでいる様子でした。

嬉野の園さん、私を呼んで下さって、いっぺー、御拝(にふぇー)でーびる。
Date: 2011/11/05(土)


82 八重瀬町字新城公民館にて、97歳のお祝い(かじまやー)の司会をしてきました。


上の写真ですが、奥に風車を何本か立ててあるのが見えると思いますが、その左に座って頭にバンダナみたいな布を巻いている方が、このお祝いの主人公、新垣マツさん97歳です。

二枚目の写真は、公民館一杯に座っていらっしゃる新城区民の皆さんです。私は前で司会をがんばっています。

三枚目の写真は、私が何か面白いことを言ったのでしょう、観客が笑っている様子です。

一番下の写真ですが、今回のお祝いの為に記念誌までわざわざ発行されました。



おきなわ島の南部に位置する、旧具志頭村、現八重瀬町の新城(あらぐすく)という字で村を挙げて、97歳になる新垣マツさんの風廻(かじまやー)お祝いがあり、その司会をしてきました。

「かじまやー」という語は「風廻」から来ていますが「風車」と当て字で書かれることが多いです。かじまやーですが、この私のHP上にある随筆をクリックし、その中の「光龍ぬうちなーありくり随筆」をさらにクリックして、その中の31番目の文章を読んでもらえれば詳しく分ります。

さて、うちなーでは97歳を迎える方が家族にいらっしゃればお祝いをします。まず、家族だけでご馳走を作って祝う方もいらっしゃいます。そして、もう少し大きくお祝いをしたい方はホテルなどで食事会を開く家庭も多いです。

さらに、もっと盛大にやりたい方はホテルに親戚や友人などを招いたり、はたまた司会を有名人に頼んだり、ラジバンダリ、じゃないけど、余興にプロの民謡歌手や、うちなー芝居の大御所を呼んだりと色々趣向をこらしたお祝いをする方も結構いらっしゃいます。それは97歳のみならず、88歳のとーかち祝いや、85歳の生年祝い、また、73歳の生年祝いの時でも派手にやる方もいらっしゃいます。

そしてもっとも大きなお祝いは、やはり自分の住んでいる字をあげてのお祝いが一番盛大です。これは残念なことに近年では、那覇などの都会ではほとんど見られず、字をあげてお祝いをしてくれるというのは田舎に限ってしまっており、田舎でもやらない所は多いのが現状です。

そういう時世なのに字をあげてお祝いをするこの八重瀬町の新城はとても素晴らしい字だといえるでしょう。とにかくそのお祝いの内容がすごいんです。上の写真にもある通りですが、まず字をあげて記念誌を発行します。そして、当日の為に字民総出といっても良いほど、公民館の飾り付けや当日の準備などをします。

そして当日は新城の御願所や火ぬ神などを新城区長などがまわり、感謝と村の繁栄を祈願し、そこで旗頭(はたがしらと読む。豊年祭や綱引き行事などで用いるのぼりの一種。)を青年会で掲げて気勢をあげ、さらに集落内をオープンカーでマツさんを乗せ練り歩き、最後は公民館に到着し、それを待ちうけたかのように、青年会がヱイサーを披露します。これだけでもすごいイヴェントなのに、さらに公民館にて八重瀬町長や議長などの祝辞を受け、盛大な式典を開きます。

そして最後の大詰めが新城の芸達者な人達が集まり大余興大会が開かれるのです。そこでは新城の重鎮達が勢ぞろいします。重鎮達というくらいですからお年寄りがとても多いです。そこで日本語で司会をしても座は白けるだけです。そこで、うちなーぐちですべてできる私に白羽の矢が立ちました。私もすべてうちなーぐちでやってくれと言われ喜び勇んで出かけました。とにかく大盛り上がりで、すべてうちなーぐちで司会をするというのはとても気持ちが良いものでした。

新垣マツさん、我んにん(私も)、あやかーらち呉みそーり(あやからせて下さい)。また、新城ぬ御総様、我ん(私を)呼でぃ呉みそーち(呼んで下さって)、御拝(にふぇー)でーびる。
Date: 2011/10/30(日)


81 沖縄大学にて「琉球諸語の復興を目指して」シンポジウムを行いました。その2



一番上の写真は、私も僭越ながら琉球・うちなーの歴史定義について考えを発表しました。その様子です。
二番目の写真ですが、4人で和気あいあいとパネルディスカッションをしている様子です。
三番目の写真は、最後にカチャーシーをやったのですが、こんなお硬い雰囲気で踊ること自体ものすごく勇気のいることなのに、何とこの2人のおじさん、おばさんは、誰にいわれることなく勝手に舞台にあがってきて踊ってくれました。後で聞いたら何と私の高校時代の同級生の両親でした。びっくり。
四番目の写真は、今回のシンポジウムを開いたメンバー皆で記念写真を取りました。

そして4枚の写真の下にこのシンポジウムのすべてが動画で見られます。私は唄も唄いますのでご覧下さい。


その1からの続き。


そして、松原好次氏にはハワイ語復興運動について語ってもらいました。実は松原さんとはまったく面識はありませんでした。去年、私はハワイ大学に招かれ、ハワイ語のみで教えるハワイ語学校を見学させていただき、衝撃を受けたと書きましたが、それから帰国し、ハワイの事をブログに書くためにハワイ語復興運動の事や、ハワイの歴史をしらべようと思い、色々な文献を調べていたら、「大地にしがみつけ〜ハワイ先住民女性の訴え」という本に出会いました。この本はハワイ大学の教授でもある、ハウナニ=ケイ=トラスクという人が書いた”From a Native
Daughter”という本を松原好次氏が翻訳したものです。その巻頭に、日本語版のみに寄せられた原作者トラスク氏のメッセージが強烈なので、少し紹介します。

「本書をお読みになりましたら、次の二点を、じっくり考えてみてください。
一 ハワイの観光産業は、環境や文化を破壊するものです。この産業は外国人が牛耳っていて 〜中略〜 日本人観光客によって、先住民経済の依存体質が年々深まるだけではなく、私たち先住民の環境も急速に破壊されています。
二 沖縄と同様に、ハワイはアメリカの軍事的植民地と言えるでしょう。 〜中略〜 沖縄が沖縄の人たちに返還されるべきであるように、北海道が先住民であるアイヌに返還されるべきであるように、ハワイもハワイ先住民に返還されるべきなのです 二〇〇二年三月」

冒頭からの強烈な言葉に私はびっくりしました。そして、賛同できない箇所はあるものの、トラスク氏の言いたいハワイ先住民の叫びは、十二分にこの本を読み理解できました。

こんな強烈な本を翻訳した松原氏に、シンポジウムでハワイの現状を語っていただけないかと、メールでうちなーぐち復興への思いを綴ったお願い文を送ってみました。そうしたらあっさり引き受けていただき、とても、とても嬉しく思いました。

これで役者はそろったと思い、今回のシンポジウムに至ったのです。うちなーぐちを復興、継承、存続、実践、という主旨のことを琉球諸語に関わっている人で語って下さる方はいるでしょうが、それだけでは、まだ弱いと思うのです。外国で同じ境遇にある民族の復興運動などで先進的な地域から学ぶ、また報告というのはほとんどと言ってよいほど聞いたことがありません。うちなーんちゅにとってとても身近なハワイが、欧米でもかなり先駆的なことをしているにも関わらず、日本国内、ましてや、うちなーのメディアなどでもほとんど見かけることができません。

上に記した、トラスク氏が発言しているように、ハワイもうちなーもアメリカの軍事的植民地状態が現在でも続いているのです。こういうことを書くと、「何だ、基地反対派かよ」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それだけではなく、言語復興に関する驚くべき事実に関しての情報をもっと我々は共有する必要があると思うのです。

日本のメディアがハワイを取り上げる時には「常夏の楽園」「パラダイス」「フラダンスを踊る陽気なハワイ人たち」というイメージのみが先行しており、ハワイは言語もあり、ハワイ王国が過去に存在し、繁栄を誇っていたということに関してはほとんど取り上げられません。

ハワイに住んでいるうちなー系、日系、白人たちにも、実はハワイ語のみで教える学校が30校近くもあり、約2000人の生徒たちがハワイ語のみで教育を受けているということはあまり知られていないようなのです。

その言語のみで教科を教えることを「イマージョン」といいますが、その、ハワイ語イマージョン学校がここまで隆盛してきたことに関して、うちなーも見習えないかと思うのです。

そのことに関してのヒントがハワイからも、またカタルーニャからもたくさん学べるはずです。その為に今回のシンポジウムを企画しました。

今回は、沖縄大学の好意により、ユーストリームというインターネットの動画配信サイトより、リアルタイムで放映されました。ハワイや東京などでも生中継で見てもらったようです。それに関しては少し編集したものを近日ネット上で見られるようにしますので、その際にはNewsなどでお知らせしますのでご覧いただければ幸いです。

Date: 2011/10/29(土)


80 沖縄大学にて「琉球諸語の復興を目指して」シンポジウムを行いました。その1


一番上の写真は、沖縄キリスト教学院大学英語講師の新垣友子氏が司会をしている様子です。
二番目の写真ですが、伊波普猷の作った琉歌を「恋ぬ花」という琉球民謡に乗せて唄っている様子です。
三番目の写真は、京都大学高等教育研究開発推進機構准教授の塚原信行氏が、カタルーニャ語復興運動について講演している様子です。
四番目の写真は、電気通信大学総合文化講座教授の松原好次氏が、ハワイ語の復興運動について講演している様子です。



遂に、2011年10月29日(土)に「琉球諸語の復興を目指して〜スペイン・アメリカの少数言語復興から学ぶ」というシンポジウムを開くことができました。遂に、と書いたのには理由があります。

実は、その前の月、9月に行う予定だったのが、気まぐれな台風のせいで延期せざるをえなかったからです。そして、当日わざわざお越しいただいた皆さん、また取り上げて下さったマスメディアの皆さん、御拝(にふぇー)でーびる(ありがとうございます)。お陰さまで盛会でした。

このシンポジウムは私が立案し、提供は私が毎月うちなーぐち講座を行っている「ウエルカルチャースクール」さんで、主催は沖縄大学の地域研究所でした。

司会を誰かに頼むことを始めのうちは考えていなかったのですが、沖縄キリスト教学院大学英語講師の新垣友子さんの「手伝うことがあれば遠慮なくいってね」という好意に甘えてしまい、司会のみならず、沖縄タイムスにて論稿をお願いしたり、また、寄稿文も新聞に書いてもらったりと、かなり色々なことを頼みこんでしまい迷惑をかけてしまいました。こんなに色々やっていただいたのにも関わらず、司会者名をチラシに掲載できなかったので申し訳なく思います。

そして、実はこのシンポジウムのパート2を、来年2012年2月18日(土)に行いますが、その際には新垣友子さんにはメインでお願いする予定ですので、皆さん、来年もお力添えいただけますよう、ゆたさるぐとぅ(よろしく)うにげーさびら(お願いします)。

さて、このシンポジウムを行った理由ですが、チラシにも書いてある通り、2009年2月にユネスコが琉球諸語を言語として認めてくれたということを広く知ってもらいたいということと、もう一歩踏み込んで、言語だからこそ公教育で教えることを実現したいと思ったからです。

その思いが強まったのは、去年ハワイ大学に招かれ、さらにハワイ語のみで教える学校を見学させてもらったからです。その様子については、このブログの39番から55番まで書きましたので読んでいただければ幸いです。

ハワイ滞在は私にとっては衝撃でした。ハワイがアメリカの50番目の州だということは誰でも知っていることでしょうが、ハワイが1893年までは完全なる独立国で、ハワイ語という言語で学校教育も行い、政治、経済、はたまた新聞もハワイ語で発行していたという歴史を知っている方はどれぐらいいるでしょう?

それだけではなく、1848年にはハワイ語の学校が624校もあり、19644人もの生徒がいたのに、わずか、54年後の1902年にはハワイ語の学校はゼロになり、その代わり英語学校が203校もでき、生徒数も18382人と、完全にハワイ語が撲滅させられ英語が取って代わってしまったのです。その原因はもちろんアメリカの侵略・占領行為によってです。1993年に、実は、公的にアメリカのクリントン大統領はハワイ王国を滅ぼしたことについて謝罪をしました。

この一連の歴史は我が琉球も同じだといえます。日本が1879年に琉球王国を侵略し滅ぼし、代わりに沖縄県というものを強制的に設置したせいで、言語は失われてしまったのです。ただ、日本からの正式の謝罪は2011年現在でもありません。

ここまで書くと、私を危ない独立運動家だと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではないので勘違いはなさらないで下さい。私が望むのは、ハワイ語が現在復活し、2000人以上の生徒が30校近くもあるハワイ語学校に通っているという現実を、我がうちなーでもお手本にできないかということです。

ハワイの先住民であるハワイ人達は、ハワイ語のみで教える学校を、ここ30年ほどで30校も作りました。そして、そこではアメリカはハワイ王国を侵略し占領しているのだという真実の歴史ももちろん教えています。だからといって一部にはあるかもしれませんが、ハワイがアメリカから独立するのだという運動は特におこっていません。

同じように、スペインもカタルーニャ地域を侵略・占領したという歴史がありますが、スペインから独立するのではなく、カタルーニャ語で教える学校を作り、自身の文化を教えるシステムを作りあげ、スペインという国家のなかにもう一つの国、つまり小国家があるという存在なのです。

同じくイギリス、その中のイングランドが、ウェールズ地域を侵略・占領したという歴史もあります。だからといってウェールズ地域はイギリスから独立するのではなく、ウェールズ語学校を作り、イギリス内の小国家という地位を今のところ維持しています。

こういう国家のなかの小国家という形態は、欧米ではもはや当たり前の存在となっているのです。今の時代に独立運動うんぬんというのはかなり体力のいる大変な行為だといえましょう。国家の独立ではなく、文化の独立を目指そう、それが私のシンポジウムを開こうと思った動機です。

それに関して、最近知り合いになった塚原さんに「シンポジウムを行いたいけど、協力してくれないかな」とお願いしたら二つ返事で引き受けてくれました。

もう感謝、感激です。彼のカタルーニャ自治州の研究はとても素晴らしく、我がうちなー、ひいては琉球全体によい影響を与えてくれるものだと信じています。

その2に続く。
Date: 2011/10/29(土)


79 沖縄県行政書士会へ講演してきました。


写真上は、講演前にリラックスしている様子。
真ん中の写真は、始まってすぐですが、背広にネクタイのおじさんが多く硬い雰囲気でした。
写真下は、その硬い雰囲気をカチャーシーで何とか打ちとけさせました。


名前からして硬い、沖縄県の行政書士会から依頼があり講演をしてきました。

当日いらっしゃっていた参加者の方も一見お硬い感じでしたが、私の唄や冗談が飛び出すと表情も柔らかくなり、最後は私のカチャーシーに、会長自ら前に出て踊りだし、和気あいあいと終えることができました。

2時間近く話しましたが、まだ足りませんでした(笑)。

私はネタがたくさんあるのでいくらでも、うちなーぐちや、うちなー文化の話しはできます。こういう講演を頼まれるのはとても嬉しいです。また、来月やりたいくらいです。

行政書士会では、毎年こういう文化講演会を行っているそうです。パート2がいつか叶う事を期待しております。

御拝(にふぇー)でーびる。
Date: 2011/10/21(金)


78 那覇市文化テンブス館にて修学旅行生に、珍しく三線も教えました。

写真上は、講義の前半部分、うちなーぐち講座の様子です。
真ん中の写真は、講義の後半、三線教室の様子です。
下の写真は、三線の爪はこうやって使うんだよと教えている様子。



那覇市にある文化テンブス館で、修学旅行生相手にうちなーぐち講座を教えることはよくありますので、それについてはブログにアップするまでもないのですが、今回はそれだけではなく、珍しく三線も教えたので、少し紹介してみたいと思います。

私の三線歴はもうかれこれ18年くらいになります。さらにプロとしてもやっていますので、三線を教える事もできますが、ほとんど教えてはいません。なぜかというと、私は琉球民謡、もしくは琉球古典音楽の協会に属していないということが大きな理由です。

だからといって、どこの流派にも属さず、我流で教えている方はたくさんいますので、別に協会に属さなくてもよいのでは、という意見もあります。確かにそうでしょう。ただ、私は三線を教えるからには、その生徒さん達が上達することを考えなくてはならないと思うのです。

私が今まで体験したなかで、三線を上達させる一番よい方法は、やはり、人前で発表をすることに尽きると思うのです。これだけはどんなに練習をしても身につけることができないのです。

ですから、お弟子さんに上達してもらいたいと思うのならば、ぜひ、成果発表をさせる必要があるでしょう。その際、属している団体が大きければ大きいほど、市民会館クラスのホールを借りて、成果発表の場を作ってあげることができるという大きな長所があります。

今回はたまたま、うちなーぐちを教えているのは知っているが、三線も後半部分で教えることはできないかと頼まれたので引きうけて見ました。

そうしたら意外に面白かったです。体験教室的なものなら教えることをもっと積極的にアピールしてもよいかも!と思いました。

三線体験教室という形ならば、体験した人が、三線を本格的に習ってみたいと思い、それが三線人口の向上に繋がればと思うので大歓迎です。

御総様(ぐすーよー)、三線体験教室ぬ講師以来ん、ゆたさるぐとぅ(よろしく)うにげーさびら(お願いします)。
Date: 2011/10/19(水)


77 那覇市古波蔵の児童館主催「にこにこうんどうかい」に、なぜかゲスト出演!?


上の写真は、自由気ままにゆんたく(トーク)をしている模様です。

下の写真は、ピントはずれていますけど、唯一とってもらった写真のなかで私のうしろにある「にこにこうんどうかい」の題字が見えるので掲載しました。



那覇市古波蔵の児童館館長さんから直接電話があり、「月曜日の午前中に乳幼児対象の運動会するから、その中で唄三線の演奏とトークをお願いできないねー」と言われ、スケジュールが空いていたので軽い気持ちで引き受けました。

何が何だか良く分からずその日行くと、「ドンドンドン!はい白組がんばれ」「ワーーー!」「キャーーー!」と、乳幼児達が1階の古波蔵ふれあい館の屋内にて走ったり、飛び回ったり、パン食い競争などをしていました。

運動会に流すような音楽もかかり本格的な感じでやっていて、私があぜんとして見ていると、館長さんが息を切らして私の元にかけつけてきて「後、15分くらいで終るから声かけますね」と言って、またすぐに戻ってしまいました。

一階のふれあい館は結構せまくて、私が待機する場所がないので、一旦外にでて、三線を持って階段のそばに立っていたら、宅急便の人などが出入りしてきたので、居づらくなり、結局駐車場まで行き自分の車のなかで三線を少し弾き、腕ならしをしていました。そうしたら、ジロジロ見られて、車の中も居づらくなり、どうしようかなと思った頃に、「バイロンさん、お願いします」と言われました。

でも、こどもたちどころか、親御さんたちも、また、その家族ではないのですが老人会のおばあちゃんたちも、「えっ、運動会は終わりじゃないの」という顔をしている時に私が三線を持って登場です。

「はいさい、初みてぃやーさい、今日や、はねーかさびんどー(やあ、初めまして、今日は盛り上げるぞ)」と私がすべてうちなーぐちで言うと、もう口をポカンと開けていました。

「何が始まるの?」という雰囲気の中で無理やりバイロンショーを運動会の後に始めたのですが、「館長さん、事前にお知らせしていなかったのね、この雰囲気で始めるんかい」と突っ込みを入れたかったのですが、もう始まればこっちのものです。冗談を交えながら、こども向けの童謡を唄い、最後はカチャーシーで盛り上げました。

下の写真を見てもらうと分りますが、マイクスタンドという器用なものはもちろん用意されていなく、最後のカチャーシーは職員の女性が直接マイクを私の口元に当ててくれました。

私がマイクに口を近づけると、この職員の女性は親切心からでしょう、口元からマイクを離すのです。私はマイクに声を拾ってもらおうと必死に口をマイクに近づけるのですが、この女性は口にマイクをぶつけてはいけないと思い私の口からまたさらにマイクを遠ざけたのです。そうしたら私はもっと必死になりマイクに口元をと、気が付いたら私の腰は前に70度くらい曲がり、私は、このふれあい館の床に向けて叫び続けたのです。頼むよ、もう少し気をきかせてくれよと終わった後に言うと、皆、大笑いでした。唄唄てぃ、をぅたたん(唄を唄って疲れた)。
Date: 2011/10/17(月)


76 第5回世界のウチナーンチュ大会関連、那覇市主催の歓迎会の司会を頼まれました。

一番上の写真は、歓迎会の様子を会場後方から撮った様子です。
二番目の写真は、一番参加者の多かったブラジルのうちなーんちゅ達から話しを聞いている様子。200人ほど来ていました。
三番目の写真は、次に参加者の多かったアメリカからの参加者。150人近くいました。
一番下の写真は、私のカチャーシー(カチャーシーとは弾き唄う曲の事で、それに乗せて踊ることを本来は「あっちゃめー」と言う)で、参加者、総勢500人が狂喜乱舞している状態です。



 第5回世界のウチナーンチュ大会が今年2011年10月12日(水)〜16日(日)までの5日間、県内各地で催されました。県が主体となり行う開会と閉会の式典もありますが、各市町村が行う歓迎会などの催しもあり、どこに行けばよいのか分らないぐらい各種多彩な催しが行われました。

その中で、県庁所在地でもある一番大きな那覇市でも、海外の移民の方がたくさん戻っていらっしゃるので歓迎会を行おうということになり、私が、うちなーぐちを使うと喜んでくれるだろうとのことで司会を頼まれました。

場所は那覇市内にあるロワジールホテルで、ブラジルからの参加者200人と、アメリカとハワイを合せた150人、そしてイギリスからも20人弱、ドイツから2人など、その親戚縁者も駆け付け、総勢500人の参加者で盛り上がりました。

最初に那覇市長挨拶から始まり、余興には創作ゑいさーや空手の演武などもあり、盛り上がりました。

その後、移民した方々を舞台に上げて紹介すると皆さん大喜びでした。2番目の写真を見てもらうと分りますが、ブラジルの国旗を掲げたブラジルからの参加者たちで、おそらく県内の市町村中一番多いであろうブラジル移民者の子孫たちです。日本語を使える人たちもいますが、ほとんどがポルトガル語のみという方で、身振り手振りで交流をしていました。その中で代表の方に私が話しを聞き会場の皆さんに紹介しました。

上の3番目の写真にもある、ブラジルの次に人数の多いアメリカからの参加者達ですが、私が「カリフォルニアからの参加者は手をあげて!」と言ったら、「テキサスも紹介して」と言われ、「はい、じゃあテキサスも!」と言ったら、「ユタ州も!」「サウスカロライナ州も!」「ニューヨークも!」などと収拾がつかなくなるぐらい、アメリカ各地からの参加者が多くびっくりしました。カリフォルニア州からの参加者がほとんどだと思っていた私の考えは間違っていました、御無礼(ぐぶりー)さびたん(失礼いたしましたの意味)。

ユタ州の方を紹介する時に「うんじょーユタ?(おたくはユタ?)三世相(さんじんそう)やあいびらんどーやー(易者ではありませんよね?)」という高度なジョークを言った時に、笑ってくれる方も多かったので安心しました。

最後はカチャーシーも私一人で唄い演奏し盛り上げました。私は司会、カチャーシーの演奏、また、お笑い、と一人三役をこなし、最後には私を直接頼んでくれた那覇市職員の方に「今日はバイロンショーでしたよ」と言われました。

司会を頼まれても、元来、宴会好きなので、進行をするだけではおさまらない光龍でござりまする。御無礼さびたん。世界ぬ御総様(ぐすーよー、と読む。皆様の意味)、又ん御行合拝なびら(またんうぃーちぇーをぅがなびら、と読む。また、お会いしたしましょうという意味)。
Date: 2011/10/14(金)


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