86 2012年2月18日「琉球の島々の唄者たち〜琉球諸語の復興を目指して」を開催!  2013/04/15(月)
85 私のうちなーぐち師匠「真喜志康忠(まきし こうちゅう)」先生がお亡くなりになりました。  2011/12/23(金)
84 豊見城にある障がい者就労支援センター「ちいろば」主催ハッピー大賞の審査員をしました。  2011/11/13(日)
83 南風原町にある介護老人保険施設「嬉野の園」の敬老会にて演奏  2011/11/05(土)
82 八重瀬町字新城公民館にて、97歳のお祝い(かじまやー)の司会をしてきました。  2011/10/30(日)
81 沖縄大学にて「琉球諸語の復興を目指して」シンポジウムを行いました。その2  2011/10/29(土)
80 沖縄大学にて「琉球諸語の復興を目指して」シンポジウムを行いました。その1  2011/10/29(土)
79 沖縄県行政書士会へ講演してきました。  2011/10/21(金)


86 2012年2月18日「琉球の島々の唄者たち〜琉球諸語の復興を目指して」を開催!




上の写真ですが左から、うちなーの民謡歌手の照屋寛徳さん、八重山民謡歌手の大工哲弘さん、与那国民謡歌手の宮良康正さん、宮古民謡歌手の天久勝義さん、そして比嘉光龍ですが、奥の右側に写っている女性は太鼓を担当して下さった、うちなー民謡歌手の当山米子さん。

写真下にある動画でシンポジウムのすべてが見られます。2時間45分ありますのでたっぷり琉球の世界に浸っていただければと思います。


2012年2月18日(土)午後1時〜3時半まで、沖縄大学1号館601教室にて「琉球の島々の唄者たち〜琉球諸語の復興を目指して〜最終回(全3回)」を行いました。そうそうたる、琉球の民謡歌手の方々に出演していただきました。

この4人のメンバーはそれぞれの島の人間国宝だといえる方々です。どうぞ動画をお楽しみ下さい。
Date: 2013/04/15(月)


85 私のうちなーぐち師匠「真喜志康忠(まきし こうちゅう)」先生がお亡くなりになりました。

写真上は、先生が1983年に出された著作「沖縄芝居50年」。
写真下は、遺作となった「沖縄芝居と共に」で2002年に発刊された。


2011年12月16日に私の、うちなーぐち師匠である真喜志康忠先生がお亡くなりになりました。88歳でした。謹んでお悔やみ申し上げます。

私と康忠先生の出会いはそんなに古くなく、まだ10年にも満たないぐらいで、しかも、3年前からは入院なさっていてほとんどお会いできずじまいでした。

私が最初にお会いしたのは先生のご自宅で、寒い冬だったのを覚えています。初めはすべて日本語で話されるのでびっくりしました。うちなーぐちで私は返すのですが、なかなかスイッチが入らないのか、1時間くらい話した後にようやく、うちなーぐちを使って下さって、段々と打ち解けてくると、どんどん、本物のうちなーぐちが出てきました。もうそれからは嬉しくて楽しくて、いつまでも話を聞いていたいという思いだったのを今でも覚えています。

それから数回お会い出来たのですが、その後事情があり1年ぐらいお話しする事ができませんでした。

再びお会いする事ができた時には、先生は住まいも那覇市安謝の方に越されていて、それからは、私の運転する車で、博物館に行ったり、先生の旧友を訪ねたりと、あちらこちらお供させていただきました。

そして安謝の先生宅で夜中までお話しを聞くことがたくさんありました。先生の昔の芝居の話しや、うちなーぐちのことなど、本当に色々なことを学ぶことができ、先生は私が「なー、にっかなとーいびー事(もう、遅くなっていますので)」と言うと「ぬーが、寝んてぃ行けー(何だ、泊っていけばいい)」ともおっしゃってくれました。

とにかく、そういうことが1年くらいは続いたと思いますが、体調を崩されてからは、あまり頻繁に通う事はできなくなり、その後はずっと入院なさり、16日までまったくお会いできない日が3年近く続いていました。

残念です。

もっと、学べることが、もっと吸収できることがたくさん、たくさんあったはずなのに。

ただ、先生の昔、吹き込まれた芝居のテープが私はたくさんあり、それをいつも車で再生して聞いているので、先生がお亡くなりになったという感じはなく、いつも近くにいる感じがします。

真喜志康忠という名前は、2011年現在のうちなーんちゅには、もう、50代以上の方しか分からない存在となってしまっています。

うちなーぐちが復興する世の中になった時には、先生の名前が再び世の中の人々に知られる事になるでしょう。

いや、必ず、先生の名前は未来永劫、うちなーがある限り、歴史に芝居役者として残る筈です。
Date: 2011/12/23(金)


84 豊見城にある障がい者就労支援センター「ちいろば」主催ハッピー大賞の審査員をしました。

上の写真は、ハッピー大賞の審査員ということで胸に赤いバラのリボンをつけてイエーイ!Two thumbs up!
真ん中の写真は、審査も終えて皆で記念撮影しました。私はどこにいるでしょう?
下の写真は、皆の発表を終えてコメントをしてほしいと言われたので、すべてうちなーぐちでコメントしている様子です。



豊見城真玉橋にある、「特定非営利活動法人ちいろば会 障がい者就労支援センターちいろば」が主催するハッピー大賞という参加型の舞台発表大会の審査をつとめてきました。

この「ちいろば」で私は毎月1回、1時間ほどうちなーぐちを教えています。その縁もあってのことですが、審査なんて初めてのことでしたので何がなんだか良く分かりませんでしたが一生懸命審査しました。

そして審査員一同、皆で選んだ大賞が「どじょうすくい」という内容で面白い演技を披露した城間裕介くんでした。その城間くんが大賞を取ったということに関して沖縄タイムスが取材してくれて、ウェブサイトhttp://www.okinawatimes.co.jp/article/20111119_26205/にも掲載してくれています。

前にも書きましたが、「障害」という言葉は好きではありません。じゃあ、何か別の言葉を、と考えても今のところ良い言葉が思い浮かびません。ただ、「障害」の「害」という漢字はよい漢字ではないので「がい」とひらがなにして「障がい」と書くことぐらいが私に今できることです。

彼ら「障がい者」は社会的に色々な差別や困難を感じて生きています。それに対していわゆる「健常者」たちは彼らのことを知る義務があると思うのです。

「障がい者」という存在は社会では誰でも知っているはずですが、しかし、彼らに対しての知識は、彼らの家族や関係者でない限りほとんど知らないというのが現状でしょう。

私は自分の生い立ちである「アメリカ系うちなーんちゅ」という存在が社会ではほとんど知られていないということと、うちなーぐちは言語なのに「方言扱い」されているという現状と、彼ら「障がい者」に対する社会の無関心ということは、根っこは同じ問題なのだと思っています。

だから彼らに対する気持は特別なものがあります。

「アメリカ系うちなーんちゅ」、「うちなーぐちは立派な言語である」、「障がい者と呼ばれる人たち」、他にも、日本社会で生きて行くのならば知っておかなければならないマイノリティな存在やものごとはたくさん存在するでしょう。

これらの事柄を家族や地域だけで共有するのには限界があります。また、メディアが宣伝してもそれも限界があると思います。

私が思うのは、学校教育のなかで、国語、算数、理科、社会と教えるのも大切ですが、週の3分の1の時間は割いてでも、これらの当事者などを学校に招き、どういった事が問題かなどと語ってもらい、またクラスの皆でそれについて議論をさせる時間をたくさんもうけてはどうでしょうか?
Date: 2011/11/13(日)


83 南風原町にある介護老人保険施設「嬉野の園」の敬老会にて演奏

写真上は、体育館舞台横から私がゆんたく(トーク)している場面を撮ったもの。
写真下は、体育館後ろから、観客に話しかけているところを撮ったもの。



南風原町にある介護老人保健施設「嬉野の園」の敬老会に出演してきました。唄三線演奏と面白いゆんたくで老人達を喜ばせてくれないかと依頼があり気張(ちば)てぃちゃーびたん(頑張ってきました、という意味)。

頑張りましたけど、結構大変でした。元気のよい老人会などならば、こちらが一つ言えば、三つも四つも返ってくるのですが、ここの施設は上に書いてある通り、介護が必要な老人の為に存在しています。したがって元気がないのは当たり前です。この施設にいらっしゃるご老人の方がたは家族も面倒をみることができない方がほとんどです。だから入所なさっているのです。しかし、こういう施設での演奏は、私、結構過去にやってきたから慣れています。

私がどんなにおもしろい事を言っても、楽しそうに演奏しても、静寂で返される。うーん、そういう時は、湖のほとりで読書を楽しんでいることを思えば良いのです。そう思うとだんだんと楽しくなり、なぜか皆の表情が明るく見えるから不思議です。

ただ、今回は家族の方も敬老会というのでわざわざ付き添いでいらっしゃっていたので、その方達は、結構笑って楽しんでいる様子でした。

嬉野の園さん、私を呼んで下さって、いっぺー、御拝(にふぇー)でーびる。
Date: 2011/11/05(土)


82 八重瀬町字新城公民館にて、97歳のお祝い(かじまやー)の司会をしてきました。


上の写真ですが、奥に風車を何本か立ててあるのが見えると思いますが、その左に座って頭にバンダナみたいな布を巻いている方が、このお祝いの主人公、新垣マツさん97歳です。

二枚目の写真は、公民館一杯に座っていらっしゃる新城区民の皆さんです。私は前で司会をがんばっています。

三枚目の写真は、私が何か面白いことを言ったのでしょう、観客が笑っている様子です。

一番下の写真ですが、今回のお祝いの為に記念誌までわざわざ発行されました。



おきなわ島の南部に位置する、旧具志頭村、現八重瀬町の新城(あらぐすく)という字で村を挙げて、97歳になる新垣マツさんの風廻(かじまやー)お祝いがあり、その司会をしてきました。

「かじまやー」という語は「風廻」から来ていますが「風車」と当て字で書かれることが多いです。かじまやーですが、この私のHP上にある随筆をクリックし、その中の「光龍ぬうちなーありくり随筆」をさらにクリックして、その中の31番目の文章を読んでもらえれば詳しく分ります。

さて、うちなーでは97歳を迎える方が家族にいらっしゃればお祝いをします。まず、家族だけでご馳走を作って祝う方もいらっしゃいます。そして、もう少し大きくお祝いをしたい方はホテルなどで食事会を開く家庭も多いです。

さらに、もっと盛大にやりたい方はホテルに親戚や友人などを招いたり、はたまた司会を有名人に頼んだり、ラジバンダリ、じゃないけど、余興にプロの民謡歌手や、うちなー芝居の大御所を呼んだりと色々趣向をこらしたお祝いをする方も結構いらっしゃいます。それは97歳のみならず、88歳のとーかち祝いや、85歳の生年祝い、また、73歳の生年祝いの時でも派手にやる方もいらっしゃいます。

そしてもっとも大きなお祝いは、やはり自分の住んでいる字をあげてのお祝いが一番盛大です。これは残念なことに近年では、那覇などの都会ではほとんど見られず、字をあげてお祝いをしてくれるというのは田舎に限ってしまっており、田舎でもやらない所は多いのが現状です。

そういう時世なのに字をあげてお祝いをするこの八重瀬町の新城はとても素晴らしい字だといえるでしょう。とにかくそのお祝いの内容がすごいんです。上の写真にもある通りですが、まず字をあげて記念誌を発行します。そして、当日の為に字民総出といっても良いほど、公民館の飾り付けや当日の準備などをします。

そして当日は新城の御願所や火ぬ神などを新城区長などがまわり、感謝と村の繁栄を祈願し、そこで旗頭(はたがしらと読む。豊年祭や綱引き行事などで用いるのぼりの一種。)を青年会で掲げて気勢をあげ、さらに集落内をオープンカーでマツさんを乗せ練り歩き、最後は公民館に到着し、それを待ちうけたかのように、青年会がヱイサーを披露します。これだけでもすごいイヴェントなのに、さらに公民館にて八重瀬町長や議長などの祝辞を受け、盛大な式典を開きます。

そして最後の大詰めが新城の芸達者な人達が集まり大余興大会が開かれるのです。そこでは新城の重鎮達が勢ぞろいします。重鎮達というくらいですからお年寄りがとても多いです。そこで日本語で司会をしても座は白けるだけです。そこで、うちなーぐちですべてできる私に白羽の矢が立ちました。私もすべてうちなーぐちでやってくれと言われ喜び勇んで出かけました。とにかく大盛り上がりで、すべてうちなーぐちで司会をするというのはとても気持ちが良いものでした。

新垣マツさん、我んにん(私も)、あやかーらち呉みそーり(あやからせて下さい)。また、新城ぬ御総様、我ん(私を)呼でぃ呉みそーち(呼んで下さって)、御拝(にふぇー)でーびる。
Date: 2011/10/30(日)


81 沖縄大学にて「琉球諸語の復興を目指して」シンポジウムを行いました。その2



一番上の写真は、私も僭越ながら琉球・うちなーの歴史定義について考えを発表しました。その様子です。
二番目の写真ですが、4人で和気あいあいとパネルディスカッションをしている様子です。
三番目の写真は、最後にカチャーシーをやったのですが、こんなお硬い雰囲気で踊ること自体ものすごく勇気のいることなのに、何とこの2人のおじさん、おばさんは、誰にいわれることなく勝手に舞台にあがってきて踊ってくれました。後で聞いたら何と私の高校時代の同級生の両親でした。びっくり。
四番目の写真は、今回のシンポジウムを開いたメンバー皆で記念写真を取りました。

そして4枚の写真の下にこのシンポジウムのすべてが動画で見られます。私は唄も唄いますのでご覧下さい。


その1からの続き。


そして、松原好次氏にはハワイ語復興運動について語ってもらいました。実は松原さんとはまったく面識はありませんでした。去年、私はハワイ大学に招かれ、ハワイ語のみで教えるハワイ語学校を見学させていただき、衝撃を受けたと書きましたが、それから帰国し、ハワイの事をブログに書くためにハワイ語復興運動の事や、ハワイの歴史をしらべようと思い、色々な文献を調べていたら、「大地にしがみつけ〜ハワイ先住民女性の訴え」という本に出会いました。この本はハワイ大学の教授でもある、ハウナニ=ケイ=トラスクという人が書いた”From a Native
Daughter”という本を松原好次氏が翻訳したものです。その巻頭に、日本語版のみに寄せられた原作者トラスク氏のメッセージが強烈なので、少し紹介します。

「本書をお読みになりましたら、次の二点を、じっくり考えてみてください。
一 ハワイの観光産業は、環境や文化を破壊するものです。この産業は外国人が牛耳っていて 〜中略〜 日本人観光客によって、先住民経済の依存体質が年々深まるだけではなく、私たち先住民の環境も急速に破壊されています。
二 沖縄と同様に、ハワイはアメリカの軍事的植民地と言えるでしょう。 〜中略〜 沖縄が沖縄の人たちに返還されるべきであるように、北海道が先住民であるアイヌに返還されるべきであるように、ハワイもハワイ先住民に返還されるべきなのです 二〇〇二年三月」

冒頭からの強烈な言葉に私はびっくりしました。そして、賛同できない箇所はあるものの、トラスク氏の言いたいハワイ先住民の叫びは、十二分にこの本を読み理解できました。

こんな強烈な本を翻訳した松原氏に、シンポジウムでハワイの現状を語っていただけないかと、メールでうちなーぐち復興への思いを綴ったお願い文を送ってみました。そうしたらあっさり引き受けていただき、とても、とても嬉しく思いました。

これで役者はそろったと思い、今回のシンポジウムに至ったのです。うちなーぐちを復興、継承、存続、実践、という主旨のことを琉球諸語に関わっている人で語って下さる方はいるでしょうが、それだけでは、まだ弱いと思うのです。外国で同じ境遇にある民族の復興運動などで先進的な地域から学ぶ、また報告というのはほとんどと言ってよいほど聞いたことがありません。うちなーんちゅにとってとても身近なハワイが、欧米でもかなり先駆的なことをしているにも関わらず、日本国内、ましてや、うちなーのメディアなどでもほとんど見かけることができません。

上に記した、トラスク氏が発言しているように、ハワイもうちなーもアメリカの軍事的植民地状態が現在でも続いているのです。こういうことを書くと、「何だ、基地反対派かよ」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、それだけではなく、言語復興に関する驚くべき事実に関しての情報をもっと我々は共有する必要があると思うのです。

日本のメディアがハワイを取り上げる時には「常夏の楽園」「パラダイス」「フラダンスを踊る陽気なハワイ人たち」というイメージのみが先行しており、ハワイは言語もあり、ハワイ王国が過去に存在し、繁栄を誇っていたということに関してはほとんど取り上げられません。

ハワイに住んでいるうちなー系、日系、白人たちにも、実はハワイ語のみで教える学校が30校近くもあり、約2000人の生徒たちがハワイ語のみで教育を受けているということはあまり知られていないようなのです。

その言語のみで教科を教えることを「イマージョン」といいますが、その、ハワイ語イマージョン学校がここまで隆盛してきたことに関して、うちなーも見習えないかと思うのです。

そのことに関してのヒントがハワイからも、またカタルーニャからもたくさん学べるはずです。その為に今回のシンポジウムを企画しました。

今回は、沖縄大学の好意により、ユーストリームというインターネットの動画配信サイトより、リアルタイムで放映されました。ハワイや東京などでも生中継で見てもらったようです。それに関しては少し編集したものを近日ネット上で見られるようにしますので、その際にはNewsなどでお知らせしますのでご覧いただければ幸いです。

Date: 2011/10/29(土)


80 沖縄大学にて「琉球諸語の復興を目指して」シンポジウムを行いました。その1


一番上の写真は、沖縄キリスト教学院大学英語講師の新垣友子氏が司会をしている様子です。
二番目の写真ですが、伊波普猷の作った琉歌を「恋ぬ花」という琉球民謡に乗せて唄っている様子です。
三番目の写真は、京都大学高等教育研究開発推進機構准教授の塚原信行氏が、カタルーニャ語復興運動について講演している様子です。
四番目の写真は、電気通信大学総合文化講座教授の松原好次氏が、ハワイ語の復興運動について講演している様子です。



遂に、2011年10月29日(土)に「琉球諸語の復興を目指して〜スペイン・アメリカの少数言語復興から学ぶ」というシンポジウムを開くことができました。遂に、と書いたのには理由があります。

実は、その前の月、9月に行う予定だったのが、気まぐれな台風のせいで延期せざるをえなかったからです。そして、当日わざわざお越しいただいた皆さん、また取り上げて下さったマスメディアの皆さん、御拝(にふぇー)でーびる(ありがとうございます)。お陰さまで盛会でした。

このシンポジウムは私が立案し、提供は私が毎月うちなーぐち講座を行っている「ウエルカルチャースクール」さんで、主催は沖縄大学の地域研究所でした。

司会を誰かに頼むことを始めのうちは考えていなかったのですが、沖縄キリスト教学院大学英語講師の新垣友子さんの「手伝うことがあれば遠慮なくいってね」という好意に甘えてしまい、司会のみならず、沖縄タイムスにて論稿をお願いしたり、また、寄稿文も新聞に書いてもらったりと、かなり色々なことを頼みこんでしまい迷惑をかけてしまいました。こんなに色々やっていただいたのにも関わらず、司会者名をチラシに掲載できなかったので申し訳なく思います。

そして、実はこのシンポジウムのパート2を、来年2012年2月18日(土)に行いますが、その際には新垣友子さんにはメインでお願いする予定ですので、皆さん、来年もお力添えいただけますよう、ゆたさるぐとぅ(よろしく)うにげーさびら(お願いします)。

さて、このシンポジウムを行った理由ですが、チラシにも書いてある通り、2009年2月にユネスコが琉球諸語を言語として認めてくれたということを広く知ってもらいたいということと、もう一歩踏み込んで、言語だからこそ公教育で教えることを実現したいと思ったからです。

その思いが強まったのは、去年ハワイ大学に招かれ、さらにハワイ語のみで教える学校を見学させてもらったからです。その様子については、このブログの39番から55番まで書きましたので読んでいただければ幸いです。

ハワイ滞在は私にとっては衝撃でした。ハワイがアメリカの50番目の州だということは誰でも知っていることでしょうが、ハワイが1893年までは完全なる独立国で、ハワイ語という言語で学校教育も行い、政治、経済、はたまた新聞もハワイ語で発行していたという歴史を知っている方はどれぐらいいるでしょう?

それだけではなく、1848年にはハワイ語の学校が624校もあり、19644人もの生徒がいたのに、わずか、54年後の1902年にはハワイ語の学校はゼロになり、その代わり英語学校が203校もでき、生徒数も18382人と、完全にハワイ語が撲滅させられ英語が取って代わってしまったのです。その原因はもちろんアメリカの侵略・占領行為によってです。1993年に、実は、公的にアメリカのクリントン大統領はハワイ王国を滅ぼしたことについて謝罪をしました。

この一連の歴史は我が琉球も同じだといえます。日本が1879年に琉球王国を侵略し滅ぼし、代わりに沖縄県というものを強制的に設置したせいで、言語は失われてしまったのです。ただ、日本からの正式の謝罪は2011年現在でもありません。

ここまで書くと、私を危ない独立運動家だと思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではないので勘違いはなさらないで下さい。私が望むのは、ハワイ語が現在復活し、2000人以上の生徒が30校近くもあるハワイ語学校に通っているという現実を、我がうちなーでもお手本にできないかということです。

ハワイの先住民であるハワイ人達は、ハワイ語のみで教える学校を、ここ30年ほどで30校も作りました。そして、そこではアメリカはハワイ王国を侵略し占領しているのだという真実の歴史ももちろん教えています。だからといって一部にはあるかもしれませんが、ハワイがアメリカから独立するのだという運動は特におこっていません。

同じように、スペインもカタルーニャ地域を侵略・占領したという歴史がありますが、スペインから独立するのではなく、カタルーニャ語で教える学校を作り、自身の文化を教えるシステムを作りあげ、スペインという国家のなかにもう一つの国、つまり小国家があるという存在なのです。

同じくイギリス、その中のイングランドが、ウェールズ地域を侵略・占領したという歴史もあります。だからといってウェールズ地域はイギリスから独立するのではなく、ウェールズ語学校を作り、イギリス内の小国家という地位を今のところ維持しています。

こういう国家のなかの小国家という形態は、欧米ではもはや当たり前の存在となっているのです。今の時代に独立運動うんぬんというのはかなり体力のいる大変な行為だといえましょう。国家の独立ではなく、文化の独立を目指そう、それが私のシンポジウムを開こうと思った動機です。

それに関して、最近知り合いになった塚原さんに「シンポジウムを行いたいけど、協力してくれないかな」とお願いしたら二つ返事で引き受けてくれました。

もう感謝、感激です。彼のカタルーニャ自治州の研究はとても素晴らしく、我がうちなー、ひいては琉球全体によい影響を与えてくれるものだと信じています。

その2に続く。
Date: 2011/10/29(土)


79 沖縄県行政書士会へ講演してきました。


写真上は、講演前にリラックスしている様子。
真ん中の写真は、始まってすぐですが、背広にネクタイのおじさんが多く硬い雰囲気でした。
写真下は、その硬い雰囲気をカチャーシーで何とか打ちとけさせました。


名前からして硬い、沖縄県の行政書士会から依頼があり講演をしてきました。

当日いらっしゃっていた参加者の方も一見お硬い感じでしたが、私の唄や冗談が飛び出すと表情も柔らかくなり、最後は私のカチャーシーに、会長自ら前に出て踊りだし、和気あいあいと終えることができました。

2時間近く話しましたが、まだ足りませんでした(笑)。

私はネタがたくさんあるのでいくらでも、うちなーぐちや、うちなー文化の話しはできます。こういう講演を頼まれるのはとても嬉しいです。また、来月やりたいくらいです。

行政書士会では、毎年こういう文化講演会を行っているそうです。パート2がいつか叶う事を期待しております。

御拝(にふぇー)でーびる。
Date: 2011/10/21(金)


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