*--光龍ぬうちなーありくり随筆--*

21 うちなーぐち(おきなわ語)とは現在では芝居言葉の事   2010/11/21(日)
20 真喜志康忠先生。我ん腰当(くさてぃ)その4  2010/11/16(火)
19 真喜志康忠先生。我ん腰当(くさてぃ)その3  2010/11/15(月)
18 真喜志康忠先生。我ん腰当(くさてぃ)その2  2010/11/02(火)
17 真喜志康忠先生。我ん腰当(くさてぃ)その1  2010/11/01(月)
16 国立国語研究所編『沖縄語辞典』が私のバイブル。腰当(くさてぃ)。その4  2010/10/21(木)
15 国立国語研究所編『沖縄語辞典』が私のバイブル。腰当(くさてぃ)。その3  2010/10/20(水)
14 国立国語研究所編『沖縄語辞典』が私のバイブル。腰当(くさてぃ)。その2  2010/10/19(火)


21 うちなーぐち(おきなわ語)とは現在では芝居言葉の事 

上のポスターは真喜志康忠先生の弟子、平良進さんの芝居公演の宣伝チラシ。平良進さんは、NHK「ちゅらさん」で有名な平良とみさんの旦那さん。これぞうちなー芝居という典型的な宣伝ポスター。



さて、実は私の「腰当(くさてぃ)」である真喜志康忠先生が2、3年ほど前から体調を崩されて、私はとても困っていました。

それでも、ただ困っているだけでは私の勉強も進みません。

私の勉強が進まないというのは、うちなーの文化がすたれていくことになると勝手に思い込んでいましたので、どうしても同じように博識なうちなーぐちの母語話者を探す必要があったのです。

ただし、私は那覇生まれですので那覇生まれの方、もしくは首里の方という限定で探し回りました。

理由は、琉球には琉球諸語という6つの言語(北から、奄美語、国頭語、おきなわ語、宮古語、八重山語、与那国語)があり、私が生まれ育ったのは「おきなわ語」の地域で、私の育ての母は那覇生まれ育ち、育ての父は小学生の頃からずっと那覇、という環境だったので、当然、那覇言葉を学ぶのが自然だと思ったからです。

はい、けれども現在では、純粋な那覇言葉を使う方はかなり少なく、その那覇言葉の片鱗が残っているのは「芝居言葉(しばいくとぅば)」だとしか言えないというのが現実です。

この芝居言葉は現在では、うちなーぐちの共通語的な言葉になっています。

その理由ですが、王府のあった首里の言葉は、琉球王国時代には琉球中の共通語的な役割を果たしていましたが、1879(明治12)年に沖縄県が強制設置されると、首里言葉をはじめ、それ以外の琉球中の地方の言葉も、公教育や行政では日本語が取って代わってしまいました。

1879年の日本の琉球侵略後の支配により、突然、琉球諸語は公的な場で用いるのは良くないと思わされる時代になってしまいましたが、庶民はそれでも使い続けていました。

そして、公の場では使われなくなったにも関わらず、首里言葉が唯一大手を振って使えた場所がありました。

それはうちなー芝居の中です。

明治、大正、昭和までは庶民にとって、うちなー芝居は大きな存在でした。

平成になってからはもう天然記念物状態になってしまっていますが、過去には、琉球中に住む人たちの唯一の娯楽でした。

テレビや映画などが登場する前までは琉球中に娯楽を提供していたとも言えます。
Date: 2010/11/21(日)


20 真喜志康忠先生。我ん腰当(くさてぃ)その4

上の写真は、真喜志康忠先生の2冊目の自伝『沖縄芝居と共に』の中に収められている写真で、うちなー民謡の天才唄三線者、登川誠仁氏と。



41歳の若さでうちなーぐちが話せるわけがないし、うちなーぐちが理解できるわけがないと、51歳以上の方には当たり前の偏見が存在します。

その時に、私の先生は真喜志康忠ですと言えば話は早いのです。

ああ、だからうちなーぐちペラペラなのねと。

ただ、じゃあ誰でも真喜志康忠という名を語れば世間は納得するのかというと、そうではないでしょう。

本当にうちなーぐちを使いこなし、納得のいくような言葉の使い方をせねば、いくら真喜志康忠さんから言葉を習ったからと言っても、訳の分からない、うちなーぐちを使うようならば誰からも見向きもされないでしょう。

逆に、うちなーぐちの教育もない、また、検定試験もないと言う現在の状況では、本当に勉強をし、うちなーぐちを話せるものしか生き残れないと言えるのではないでしょうか?

そういう状況ですので私はかなりうちなーぐちを勉強しています。

いや、勉強という言葉ではまだ言葉が足りません。

私にとって、うちなーぐちというのは、ただの言語以上に私自身のアイデンティティ、もっと大きく言えば、私の生きる存在価値にまで匹敵するほどのものなのです。

日本人が、英語などのような言語を「国際語だから身に付けたいわ」、というような軽い動機で始めるものではなく、うちなーぐちというのは、私の生い立ちとも深く関わる、全身を流れる血のようなもの、それが私にとってのうちなーぐちなのです。

ですから、アメリカ系うちなーんちゅとして生まれないと、この気持ちは、同じうちなーんちゅでも分からないと思います。

普通(普通って何?という突っ込みは置いといて下され)のうちなーんちゅの方が、悲しい事に、うちなーぐちに関しては無頓着というのが、今のうちなーの現状でもあります。

康忠先生の事で熱く語ってしまいましたが、私がうちなーぐちを話し、語る時、また、その発音、アクセントなどは、ほぼ真喜志康忠先生を踏襲しています。
Date: 2010/11/16(火)


19 真喜志康忠先生。我ん腰当(くさてぃ)その3

上の写真は、真喜志康忠先生の2冊目の自伝『沖縄芝居と共に』の中に収められている写真で、平良とみさんとの共演


さて、康忠先生は戦後「ときわ座」という劇団を立ち上げました。

上の写真にもあるように、その時に、NHK「美らさん」で有名な平良とみさんも入団してきて先生のもとで芝居をしていたのです。

また、平良とみさんの旦那さん、平良進さんも同じくときわ座に入団し、平良進さんは自身のプロフィールに「真喜志康忠氏に師事」と書いてあります。

平良進さんに私は現在すごくお世話になっていて、何か分らない単語などがあれば電話をして教えていただいています。

平良進さんは、康忠先生から手取り足とり芝居を習ったとのことなので、私が聞きたい芝居の事や、うちなーぐちの事など、何を聞いても答えてくれるのでとても頼もしい存在です。

私はうちなーぐちを、真喜志康忠先生のように話せるようになりたいという思いから、先生の出演している芝居のテープを聞き、そっくりそのまま真似るように勉強しています。

ですから、自分ではかなり先生と話し方は似ていると思っています。

それが高じて、年輩の方が不思議そうに、「いゃーや、まーから、うちなーぐち習たが?(君は誰からうちなーぐちを習ったの?)」と尋ねられる事が良くあります。

もちろん「真喜志康忠先生から習とーいびん(習っています)」と答えます。

そうするとほとんどの方が、「いぇー、あんす事、上手やてーさ(だから、こんなにうまいのか)」と言われます。

そうです、真喜志康忠という名を年輩の方に言うと、「先の副将軍、水戸の光國公にあらせられるぞ」と印籠を見せるようなものです。

まあ、権威的なものは、私は嫌いですが、うちなーぐちに関しては、政府も検定試験も、先生という人も存在しないのが事実なので、51歳以上の方に、私のうちなーぐちの正当性を納得させるには、真喜志康忠先生の名を出すことはとても有効なのは事実ではあります。



その4に続く
Date: 2010/11/15(月)


18 真喜志康忠先生。我ん腰当(くさてぃ)その2


上の写真は、真喜志康忠先生の2冊目の自伝「沖縄芝居と共に」の表紙。



1945年、日本の侵略戦争終焉後、ラジオがはじめに普及し、その後、テレビが普及し始めます。

ラジオ、テレビが本当に民間に普及し始めたのは昭和30年代頃のようです。

つまり、戦前はもちろんの事、昭和20年代(1945〜1955)までの、うちなーんちゅの娯楽、エンターテインメントというのは「うちなー芝居」だけだったのです。

51歳より年下の世代に「真喜志康忠という名を聞けば、昔は誰でも知っていたし、今のスマップのキムタクのような存在だったのだよ」と言っても、皆、ピンときません。

それはそうでしょう、どれだけの年月を経た事か、それだけではなく言語も分からないという二重の壁が51歳より年下の世代には立ちはだかっています。

かくいう私も24歳まで、うちなーアイデンティティに目覚めるまでは、真喜志康忠という名前をほとんど知りませんでした。

私が真喜志康忠という名を知ったきっかけは、ラジオ沖縄(ROK)で早朝5時から1時間やっていた「真喜志康忠名作劇場」というラジオうちなー芝居でした。

これは再放送ではありましたが、すべて、うちなーぐちでやる本格的なものでした。

この「康忠名作劇場」は今でも車の中でBGMがわりに聞いています。

そして、ある人の紹介で、本人、真喜志康忠氏に会う事が出来たのです。

もう嬉しくて、いつまでも話を聞いていたいと思いました。

そして康忠先生も、私の熱心さに感心して下さり、「わったー家んじ寝んてぃ行けー(うちに泊まって行け)」とまで言われるほど先生は私に色々な事を話して下さったのです。

しかし、寄る年波には勝てず先生は入院なさり、もう2年もお話できない状態が続いています。

もう一度あの康忠節を先生から聞けたらと祈っています。


その3に続く
Date: 2010/11/02(火)


17 真喜志康忠先生。我ん腰当(くさてぃ)その1

上の写真は、真喜志康忠先生自伝「沖縄芝居五〇年」の表紙。


うちなーぐちに「腰当(くさてぃ)」という言葉がありますが、元々の意味は「後ろにすること」、「背にすること」という意味で、それが転じて「根拠になるもの」という意味でも使われます。


国立国語研究所編『沖縄語辞典』が私のうちなーぐちの根拠になるものと紹介しましたが、それは文献の事であり、生きた私のうちなーぐち、それを学んだのは「真喜志康忠(まきし こうちゅう)」先生です。

真喜志康忠先生は1923(大正12)年に、那覇市高橋町(現 那覇市泊)に生まれ、数え年9歳(昭和7年)からうちなー芝居の道へ入り、戦前、戦後のうちなー芝居のスターとして、誰でも知っているというほどのうちなー芝居の名役者です。

さて、ここで私と康忠先生との関わりの前に、私自身の生い立ちにおける時代背景の事を書こうと思います。

私は1969(昭和44)年にうちなーに生まれ、育ちました。金武町出身の実母の兄夫婦、つまり、伯父伯母に生後すぐ引き取られ、生活はずっとコザ(現 沖縄市)でした。

私の世代はうちなーぐちを父母から教えてもらえず、学校教育もすべて日本語なので、うちなーぐちはあまり分からないというのが実情です。

私はうちなーぐちの講師をしていて、これまで何百人という人にうちなーぐちを教えて来ました。

教えながらも、どれぐらいの年齢までが、うちなーぐちを理解できないか、常にチェックしてきました。

そこで得た、私なりの結論ですが、大体私より10歳ぐらい年上の世代、つまり1959年以後生まれた人は、うちなーぐちはあまり理解できない世代だと言えると思います。

2010年現在で、1959年生まれの方というのは51歳です。

大体、この年から上の世代になると、うちなーぐち母語話者の確率は増えていき、この年から下は極端に減っていきます。

こう書いて、ようやく分かってもらえると思うのですが、うちなー芝居というのはすべて、うちなーぐちでやります。したがって、現在51歳から年下の世代は、うちなー芝居を見てもほとんど意味が分からないのです。

ですから、真喜志康忠という名を聞き、分かるというのは、51歳より上の方だというのも事実で、私の同級生、現在41歳の世代は5人にひとり、もしくは10人にひとりしか真喜志康忠という存在を知らないでしょう。



その2に続く
Date: 2010/11/01(月)


16 国立国語研究所編『沖縄語辞典』が私のバイブル。腰当(くさてぃ)。その4

上はその3に載せた写真の全体像。



この辞典には私の発言、講演、執筆に際して、根拠となりえる色々な要素が含まれています。

例え、大正6年生まれの屋嘉比さんが、うちなーぐちではこう言うのだよと教えていただいても、とりあえず必ずこの辞典を調べて、照合してから、文章を書いたり発言したりします。

つまり、この辞典の編者の一人、島袋盛敏氏は屋嘉比さんより25歳以上も年上なのです。

さらにこれ以上古い文献で、一万三千語以上のうちなーぐちの語彙を集めた辞典はありません。

そういう理由からこの辞典は私のバイブルとなりえているのです。

結論ですが、比嘉光龍(ふぃじゃ ばいろん)が世の中に発表しているうちなーぐちには、私自身、勝手に作りあげた語などありません。

私の発言、文章、講義のほとんどは、この辞典からの引用なのです。

うちなーぐちで「根拠」を「腰当(くさてぃ)」と言いますが、この語についてもこの辞典の342ページに載っています。

「我ん腰当や、くぬ辞典やいびん(私のバイブルはこの辞典です)」とあちらこちらで、そう言っています。

私はこの辞典をうちなーに住んでいる方全てに無料で配布したいくらいです。

それぐらい一家に一冊、必要なうちなー文化の根幹「うちなーぐち」の貴重な辞典だといえます。

最後に、この題にも書いてある「腰当(くさてぃ)」という言葉ですが、元々の意味は「後ろにすること」、「背にすること」という意味ですが、それが転じて「根拠になるもの」という意味でも使われています。
Date: 2010/10/21(木)


15 国立国語研究所編『沖縄語辞典』が私のバイブル。腰当(くさてぃ)。その3

上の写真は本編の様子。実はこの辞典には約一万三千の語彙が収められているが、全てがアルファベットで表記されている。


古い文献だと原形が分かりやすいという例をあげます。

うちなー芝居などで「さく、出じてぃ(頭にきて)」という言葉が良く出て来ます。これを大正6年、首里金城町生まれの屋嘉比さんという私のうちなーぐちの師匠に聞きとり調査をしても同じく、「さく出じてぃ(頭にきて)」と発音なさいました。

けれども、この語を辞典で引くと「さく(Saku)」ではなく「しゃく(sjaku)」としか載っていないのです。

この「しゃく」とは「癇癪(かんしゃく)」の「癪(しゃく)」から来ているのだと、辞典を調べるとすぐ分かりました。

しかし、この「しゃく」の「しゃ」という発音は首里士族男性の発音で、明治の終わり頃には失われ、それ以降は、例え首里生まれ育ちの方といえども、私が調査した限りでは「さ」の発音が大多数となっています。

したがって、現在93歳の首里生まれ育ちの方でもこういう事は覚えていないし、知らないと言う事はままあるのです。

そういう色々な観点から考えても、2010年現在ご存命の方に聞き書きをして辞典を作りたいと思っても90代が限度でしょう。

仮に現在100歳の方でお話も伺える、また、こちらが聞いた事に対して的確な答えを返してくれるという方に巡り合えたとしても、国研『沖縄語辞典』の編者、島袋盛敏氏より20歳も年が若いのです。

この辞典は、内容ももちろん素晴らしいのですが、それがどうだとか、またノーベル賞を取った学者が書いたから、などという事ではなく、物理的に2010年現在ご存命ならば、120歳になる方がうちなーぐちの単語をたくさん残した、という事がすごい理由です。

つまり、うちなーぐちの語彙が、約一万三千語集められ、さらに、その語を提供した方は1880年生まれである。しかも歴史上それ以上の語彙を集めた古い辞典は存在しない、ということがこの辞典の凄さなのです。つまり、古い言葉がたくさん載っている、だから貴重なのです。

したがって、私が何かうちなーぐちで発言する。また、うちなーぐちについて書く。また、うちなーぐちを教える。

そういう時には、必ずこの辞典を見て、またこの辞典を根拠にします。


その4に続く
Date: 2010/10/20(水)


14 国立国語研究所編『沖縄語辞典』が私のバイブル。腰当(くさてぃ)。その2

上の写真は、『沖縄語辞典』の表紙をめくり最初のページの様子。タイトルと発行元、財務省印刷局の文字が書かれている。


うちなーぐち母語話者と言えば、戦前、つまり1945年以前に生まれた方だと言えます。しかし、年々少なくなっていくのは当たり前のことでしょう。

1945年以後に生まれた人は、ほとんどが日本語とおきなわ語が半々で、現在2010年では、完全に東京人と変わらない日本語のみの言語環境、つまり日本語のみで生まれ育つのが、うちなーんちゅには当たり前になってしまっているのです。

もうこうなると、私の生まれた、1969年ぐらいから、現在2010年生まれの人たちに対して「うちなーんちゅ(おきなわ人)」という名称はふさわしいでしょうか?

私は、頑張ってうちなーぐちを、「母語話者(Native Speaker)」並みに話せるようになりましたが、1969年(私を基準にして申し訳ありませんが)以後生まれた人たちは、ほとんどが日本語のみを家庭で話し、教育はもちろん100パーセント日本語教育を受けてきています。

1969年以後に生まれた人たちは、申し訳ないのですが、言語の視点から言わせてもらいますと、日本人であり、うちなーんちゅではないと言えます。

これに対して反発はあると思います。うちなーぐちを学校教育で習わなかったから、また、うちなーぐちを家庭内から撲滅していったからなど。

それでは仮に、アメリカで英語は話せないが、私はアメリカ人であると主張したらどうでしょう?

相手にされることは少ないでしょう。


話はそれましたが、うちなーぐちの母語話者という環境は1945年以前、うちなーで生まれた方を指すと言うことになります。

未来永劫こういう辞典は出てこないという理由はもう一つあります。この辞典の中心人物である島袋盛敏氏は、2010年現在、もし生きていらっしゃったら120歳になられます。

言語は古ければ古いほど確実ですし、その原形、また言葉の成り立ちに関しては古い発音などの方が言語を研究するにはふさわしいといえるでしょう。

その3に続く
Date: 2010/10/19(火)


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