*--光龍ぬうちなーありくり随筆--*

29 NHK沖縄放送局で去年から私が脚本を担当した番組が放映されています。(その2)  2010/12/08(水)
28 NHK沖縄放送局で去年から私が脚本を担当した番組が放映されています。(その1)  2010/12/07(火)
27 うちなー民謡「十番口説(じゅーばんくどぅち)」!  2010/12/06(月)
26 屋嘉比ぬぅんめー。我ん腰当(くさてぃ)その3  2010/12/03(金)
25 屋嘉比ぬぅんめー。我ん腰当(くさてぃ)その2  2010/12/02(木)
24 屋嘉比ぬぅんめー。我ん腰当(くさてぃ)その1  2010/12/01(水)
23 私の言語はおきなわ語のなかの首里、那覇混合の芝居言葉  2010/11/28(日)
22 うちなー芝居の簡単な歴史  2010/11/22(月)


29 NHK沖縄放送局で去年から私が脚本を担当した番組が放映されています。(その2)

写真は
がんちょー(2010年4月26日〜5月7日放送)
脚本:比嘉 光龍
出演:八木 政男,古謝 美佐子,蔵下 穂波
ロケ地:名護



八木さんなら間違いはありません。八木さんの話すうちなーぐちは、私の手本となる、いわゆる「芝居言葉(しばいくとぅば)」なのです。

言葉使いだけではありません、発音ももちろん完璧です。私は、うちなーぐちの講師をしていますが、とにかく私の師匠で八木さんの先輩格にあたる「真喜志康忠(まきし こうちゅう)」先生からは、発音に関してはうるさく言われました。

文章で発音について書いても実際の音を聞かなければ、説明する事は難しいのですが、とりあえず少し簡単に書いておきます。

まず、「お前」は、うちなーぐちでは「いゃー」と言います。決して「やー」ではありません。

「やー」と発音してしまうと「家」と言う意味になり、「お前」という言葉と違う意味になってしまいます。

2010年現在、「お前」をきちんと「いゃー」と発音出来るのは50代以上でしょう。

私は現在41歳ですが、同級生には一人も「いゃー」と発音できる人はいません。

みな「やー」と発音してしまっています。

40代後半でも私が調査した結果、ゆうに100人は超えていますが、発音出来ない方がほとんどでした。

例えば
「いゃー(お前)、やー(家)んかい(に)、をぅらんたんやー(いなかったな)」

と言いたいのに、私の同級生たちは、皆

「やー(家)、やーんかい(家に)うらんたんやー(売らなかったな)」

と発音してしまいます。

「やー」と発音してしまうと、何を言っているのか、70代以上のうちなーぐち母語話者は分からないというのが現実です。

そして、もう一つ、上に書いたように「をぅらんたんやー」の「をぅ」の発音です。

これも、日本語に無い発音なので、私の同級生たちは発音できないし、そもそも、うちなーぐちに「をぅ」という発音があるという存在すら全く知らないというのが現状です。

上に書いたように「居ない」というのは「をぅらん」と書き、発音しないといけません。

それを「うらん」と書いたり、発音してしまうと「売らん」と言う意味になり、これでは何の話をしているのか、70代以上のうちなーぐち母語話者にはまったく訳の分からない話になってしまいます。

「をぅらん(居ない)」と「うらん(売らない)」、この区別はとても大切で、この区別があるからこそ、うちなーぐちたるゆえんと言え、この区別をせずに話をする私達40代は、うちなーぐちではなく、「うちなーやまとぅぐち(おきなわ日本語)」というものを話している事になります。

まだまだ、発音の違いで意味が変わってしまうという語は、うちなーぐちにたくさんあります。

こういう事についても今後この「うちなーであそぼ」で面白く、分かりやすく伝えていけたらなと思います。

皆さん放送時間をチェックしてぜひご覧ください。
Date: 2010/12/08(水)


28 NHK沖縄放送局で去年から私が脚本を担当した番組が放映されています。(その1)

左上の写真は
「家習どぅ外習(やーなれーどぅふかなれー、と読む)」(2010年7月19日〜30日放送)
脚本:比嘉 光龍
出演:八木 政男,藤木 勇人,蔵下 穂波,伊波 大乃晋
ロケ地:名護

右上の写真は
よーんなー、めんそーりよー(2010年7月5日〜7月16日放送)
脚本:比嘉 光龍
出演:八木 政男,藤木 勇人,蔵下 穂波,伊波 大乃晋
ロケ地:名護


御総様(ぐすーよーと読む。皆様という意)、実は去年2009年、NHK沖縄からうちなーぐちを教えるような、分かりやすく説明する、ミニ芝居みたいなものの脚本を書いてくれないかと頼まれていました。

最初に書いたのは去年で、それが暫定的ではありますが放映された結果好評だったので、今年はレギュラーとして放映したいという事になったのです。

最初に放映されたのは、今年2010年4月26日です。それから定期的に内容を変えたものが放映され続けています。

その番組名は「うちなーであそぼ」と言います。

見た事がある方もいらっしゃるかも知れません。特に小さいお子さんのいらっしゃるママさんから、見ましたとよく言われます。それにしても良く気付きましたね。私は出演していないのに。

このミニ芝居ですが、ここでは「うちなー劇場」と銘打っているのですが、流れる前にほんの数秒間、「脚本 比嘉光龍」と出ます。それで知っていらっしゃる方もいるのですね。

そして、その内容がNHKのウェブサイト

http://www.nhk.or.jp/okinawa/asobo/theater/index.html

で見られます。

私の尊敬する、うちなー芝居役者「八木政男(はちきまさお)」さんは、私の脚本全てに出演して下さっています。感謝です。

その2に続く。
Date: 2010/12/07(火)


27 うちなー民謡「十番口説(じゅーばんくどぅち)」!




ハワイ大学ヒロ校の大原由美子教授の求めにより、十番口説(じゅーばん くどぅち)を、You TubeにUpしました。

大原さんから、

「言語学プログラムが所属するハワイ語学系では、毎学期の終わりにクラスごとに歌もしくは踊りまたは両方を学生、先生の前で披露することになっており、今学期はバイロンさんがハワイにいらしてくださったことに感謝するために琉球の歌を歌いたいという希望が出ました。「十番口説」を歌いたいということで演奏なさっている時のビデオ、もしくは音声だけでもいいのですが送っていただけないでしょうか」

という内容のメールをもらったので、頑張って撮影しました。

この撮影にはいつもお世話になっている、障がい者就労支援施設「ちいろば会」の職員に助けてもらいました。

御拝(にふぇー)でーびる。

撮影から、ビデオの中に出てくる十番口説という幕、そしてYou TubeへのUp、また日本語訳の字幕を入れてくれる事まで、もう何から何まで、ちいろばの職員さんがやって下さいました。感謝です。

そして、このブログを見て下さっている方の為に、歌詞と解説を下に記しておきます。


かっこをしてあるのは日本語訳です。




十(じゅー)番(ばん)口説(くどぅち)


1 さてぃむ くぬ世(ゆ)に 生(ぅん)まりたる         (さてもこの世に生まれたら)

  人間(にんじん) 朝夕(あさゆ)ぬ 仕(し)業(わじゃ)持(む)ち (人間朝夕仕事あり)

  委細(いせー)に話さば 聞(ち)ちみそり           (委細の事々聞きなさい)

2 先(ま)じや一番 命(いぬち)あり          (まずは一番命あり)

  命(ぬち)ぬありわどぅ 何(なに)ぐとぅん          (命のあるなら何ごとも)

  思(うむ)てぃ居(をぅ)る事(くとぅ)叶(かな)わゆる      (思い通りにかなうもの)

3 二番士(さむれー)ぬ 第一(でーいち)や           (二番士族の第一は)

  手墨(てぃしみ)学問(がくむん) 良(ゆ)く習てぃ       (習字、学問良く習い)

  親(うや)ぬ孝行 めでいすし                (親の孝行宮仕え)

4 三番 百姓ぬ 第一(でーいち)や              (三番農民の第一は)

  節々(しちしち)毛作(むぢゅくい) 遅(うく)りらん      (季節の農作遅れずに)

  油断さん如(ぐとぅ) 働(はたら)ちゅし           (油断せぬよう働けよ)

5 四番(ゆばん) 世間(しきん)ぬ 人(ふぃとぅ)びれや     (四番世間のつきあいは)

  士(さむれー)ん百姓ん 肝(ちむ)選(いら)でぃ        (士族も平民も心がけ)

  誠(まくとぅ)真実(しんじち) 面白(うむしる)や       (誠に生きるが人の道)

6 五番(ぐばん) 家(やー)持(む)ち 肝要(くゎんぬー)しち   (五番家庭を持つものは)

夫(をぅとぅ)寄(ゆ)し刀(とぅ)自(じ)寄(ゆ)し和談(わだん)そてぃ(夫婦共々心を合わせ)

  いふぃぬ 言(いぇー)くぇーん さん如(ぐとぅ)に      (口争いなど無きように)

7 六(るく)番(ばん) 銭金(じんかに) 儲(もー)きやい     (六番銭金たくわえよ)

  物(むち)ぬありわどぅ 何(なに)ぐとぅん          (財があるなら何ごとも)

  思(うむ)てぃ居(をぅ)る如(ぐとぅ)叶(かな)わゆる      (思い通りにかなうもの)

8 七番(しちばん) 七十(しちじゅー)ぬ 歳(とぅし)ならば   (七番七十の歳ならば)

  物事(むぬぐとぅ)様々(さまじゃま) 思(うみ)忘(わし)てぃ  (雑念想念忘れ去り)

  楽ゆ好(くぬ)むし 面白(うむしる)や            (楽しい事のみ好むもの)

9 八番八十ぬ歳(とぅし)ならば             (八番八十の歳ならば)

  八月(はちぐゎち)八日(はちにち) 斗(とー)掻(か)ちぬ    (八月八日米寿の)

  米(ゆに)ぬ御祝(うゆえー)ん さりる如(ぐとぅ)       (米の祝いをされるよう)

10 九番(くばん) 九十(くんじゅー)ぬ 歳(とぅし)ならば    (九番九十の歳ならば)

   子(くゎ)や 孫(ぅんまが)ん 引(ふぃ)ち連(ち)りてぃ    (子や孫を引き連れて)

   百歳(ひゃくさ)願(にが)ゆし 面白(うむしる)や       (百歳長寿を願うまで)

11 十番十分足(た)れゆしや              (十番十分述べたのは)

   昔(んかし) 神代(かみゆ)ぬ 云(い)話(ふぁなし)ん     (昔神代の言い伝え)

   有るか無(ね)らぬか 話(はな)しまでぃ           (あるか無かろうか話まで)

12 くふぃな十(とぅ)てぃんぬ 意見(いちん)ぐとぅ       (これなる十の教訓を)

   老(うぃー)てぃ 若さん 聞(ち)ちみそり          (老いも若きも聞きなされ)

   朝夕(あさゆ)忘(わし)るな 上下(かみしむ)ん        (朝夕忘るな上下も)


(解説)
一 歌詞は、1923(大正12)年、沖縄實業時報社発行『沖縄民謡集下巻』を参考に少し手直ししたもの。

二 3番の歌詞「めでい」とは、宮廷へ使える事を指す「み おや だいり(御親内裏)」が縮まった形で「美公事」という当て字もある。

三 3番の「士(さむれー)」とは士族の総称で、4番の「百姓(ひゃくしょー)」は平民の総称。
  琉球王国は階級制度社会であり、大きく分けてこの2つに分かれていた。

四 4番の「節々毛作」の「節々」は季節々々のという意味で、「毛作」とは農作、つまり農作業という意味。

五 5番の「人びれ」の「びれ」は「ふぃれー(ひれーとも発音)」の事で、「付き合い、交際」という意味。「びれ」とは、「ふぃれー」が縮まった形で、「人」という語の下についたので「びれ」と濁音になった。

六 6番の解説だが「肝要しち」は「大切にして」とも訳せる。
そして「夫寄し、刀自寄し」という諺があり、直訳すれば「夫も寄せ妻も寄せ」となるが、意味は「夫婦お互い助けあって」と言う事。「和談そてぃ」の「そてぃ」は「そーてぃ」と口語では発音する「〜して」という意味で、ここでは「話合いをして」と訳せる。「いふぃ」は「少し」という意味。「言くぇー」は「言い争い」という意味で、「さん如に」とは「しないように」という意味である。

七 唯一12番の「十てぃんぬ」の「てぃん」だけが、どういう意味か色々調べたが分らない。
Date: 2010/12/06(月)


26 屋嘉比ぬぅんめー。我ん腰当(くさてぃ)その3
首里、那覇、芝居言葉、それらをまとめ「うちなーぐち」とこれからは記します。

うちなーぐち話者を訪ねてあちらこちら探している時に、ある老人施設の職員さんが、「光龍さん、うちに98歳の方がいらっしゃるのよ」と言われ、嬉しくて訪ねて行ったら、八重山出身のおばあちゃんで、うちなーぐちはほとんど分からなかったという事もありました。

しかし、願えばかなうものです。大正6年生まれという方に出会えました。

その方が、屋嘉比ぬぅんめー(やかびのおばあさま)です。

康忠先生より6歳も年上です。屋嘉比ぬぅんめーは、本当にすごい方で徹頭徹尾首里言葉で話せる、今の時代、本当にこういう方がまだいらっしゃるのかと思えるほど、何か、大正時代にでもタイムスリップしたような感覚になるくらい、本物の首里言葉を話す、やさしいおばあさまです。

士族の家系ですので、昔の士族の品格の備わった、とても上品な方です。

また、士族は「貴族」と「士族」に分かれ、「貴族」の方が身分も高いし、言葉使いも丁寧で、教養のある言葉を話すのですが、屋嘉比ぬぅんめーは「士族」ではあるものの、祖父が首里でも有名な学問を修めた方で、いわゆる「一番科(いちばんごー)」に当たった方だそうで、家での躾はかなりうるさかったとおっしゃっています。

そして、屋嘉比ぬぅんめーが物心ついた頃でも、まだ世は大正時代で、うちなーにあの悲惨な太平洋戦争がおこるなどと想像しえない平和な世の中だったようです。

屋嘉比ぬぅんめーが物心ついた頃と言えば大正後期から昭和初期です。

その頃のうちなーは日本語教育ではありましたが、庶民のほぼ90パーセント以上が、うちなーぐち母語話者の時代でしょう。

琉球王国が崩壊して40年近く経ってはいますが、一般の方はうちなーぐちが話しやすいのは当たり前だったことでしょう。

その頃は「おばーはね、この花がね、好きだからさ」などと言う言葉使いは皆無でしょう。これを本来のうちなーぐちならば「ぅんめーや、くぬ花、いっぺー好(し)ちやんどー」となります。

この時代のおばーと呼ばれる方達は、士族ならば「ぅんめー」、平民ならば「はーめー」と、まだまだ呼ばれている時代です。

「おじー」、「おばー」などと言う言葉は、うちなーぐちとは関わりのない、日本語の語尾を切った言葉で、昭和に入ってから使われるようになった言葉だと屋嘉比さんはおっしゃっていました。

さて、下にあるビデオですが、現在獨協大学准教授のパトリック・ハインリッヒ氏が、琉球大学で研究員をしている時に撮影したもので、本当のうちなーぐちがこれで聞けるので、これはかなり貴重な映像だと言えるでしょう。

屋嘉比ぬぅんめーは、私のうちなーぐちの師匠、真喜志康忠先生より年上ですし、また平良とみさんよりも、もちろん年上です。

言語は古ければ古いほど、話者が高齢であればあるほど、その価値は高まるというのは誰の目にも明らかでしょう。
日本語字幕が無いので、うちなーぐちを分らない方は申し訳ない。いつか翻訳文をつけられたらと思っています。

皆さん、貴重な映像をどうぞご覧ください。



Date: 2010/12/03(金)


25 屋嘉比ぬぅんめー。我ん腰当(くさてぃ)その2


上の写真は私の首里言葉の師匠、屋嘉比富子さんです。



現在、純粋な首里、また、那覇言葉を話される方は、八十代以上の方だと思います。

いや、もしかしたら八十代でもあやういかもしれません。それぐらい純粋な首里言葉、那覇言葉というものはなくなりつつあります。

また、六十代、七十代の方は、うちなーぐち母語話者だと言えますが、八十代以上の方たちとは言葉の使い方の違うところが随所に見受けられ、もはや純粋な首里や、那覇の言葉の話者だとは言い切れなくなっています

それが一番分かりやすいのが「ゆたしく(よろしく)」と言う言葉だと言えるでしょう。

私が聞き取りした何人もの首里生まれ育ちの八十代以上の方は「ゆたさるぐとぅ(よろしく)」と使っていました。

那覇でも八十代以上の方ならば「ゆたさるぐとぅ」と使う方が多いです。

これこそまさに、芝居言葉で、那覇ではもしかしたら昔から使われていたのかもしれませんが、首里では私が調査した範囲では聞いたことがありません。

けれども現在、首里生まれ育ちの方で六十代、七十代の方は、「ゆたしく」という言葉が相当に浸透しているようで、こう使う方に何人も出会ってきました。

時代は流れていくのですから仕方がない事かもしれません。

ただ、私は純粋な首里言葉、純粋な那覇言葉を復活させよう、また覚えようという気はまったくありません。

そこまでこだわってしまうと、物理的に、明治12年の琉球王国時代以前に生まれた方に聞かない限り、純粋な、首里、那覇言葉の復元は無理です。

しかし、その首里、那覇言葉のほとんどが引き継がれているであろう「芝居言葉」ならば、たくさんの話者や、文献が存在するので、それを学ぶ事は容易なことだといえるでしょう。

大正12年生である康忠先生はまさに芝居言葉の師匠としては完璧な存在です。

その師匠から直接学べないとなると、最低でも大正12年生まれの方、もしくは、もっと年上の方がいらっしゃらないかなと思っていた所に、大正6年生まれでいらっしゃる、屋嘉比さんとの出会いがありました。

屋嘉比さんは、首里生まれ育ちで、純粋と言える首里言葉の母語話者です。

初めてお会いしたときには驚きでした。

しっかり昔の事を覚えていらっしゃるばかりではなく、きちんとした言葉の使い方や、用例もふんだんにまじえて教えて下さり、お会いしてから現在まで、私のうちなーぐちが、どれだけ影響を受けたか計り知れないくらいです。


その3へ続く
Date: 2010/12/02(木)


24 屋嘉比ぬぅんめー。我ん腰当(くさてぃ)その1


上の写真は私の首里言葉の師匠、屋嘉比富子さんです。


うちなーぐちに「腰当(くさてぃ)」という言葉がありますが、元々の意味は「後ろにすること」、「背にすること」という意味で、それが転じて「根拠になるもの」という意味でも使われます。

私のうちなーぐちの腰当になって下さっている方が、真喜志康忠先生のほかにもう一方いらっしゃいます。

その方は1917(大正6)年に首里金城町にて士族の家系に生まれた、屋嘉比さんという女性です。

私とは別に姻戚関係はないのですが、親しみをこめて「屋嘉比ぬぅんめー(やかびのおばあさま)」と呼ばせて頂いています。

ちなみに「ぬ」とは、日本語助詞「の」と同じ意味です。私の担当する番組などで良く「光龍ぬ」と見る事も多いと思います。

そして問題が「ぅんめー」です。「ぅん」と書いてありますが、発音は一音で、「ぅ」と「ん」の2つに分けて発音はしません。

実は、うちなーぐちには「ん」の発音が2つあります。

一つは、専門的に言うと「やわらかな声立て(Gradual Beginning)」というもので、これは日本語の「ん」と同じ発音です。

もう一つは「声門閉鎖音(Glottal Stop)」というものです。声門閉鎖音の「ん」の発音が日本語に無いので、琉球大学の音声データベースの表記を参考にしたものが、小文字「ぅ」と大文字「ん」の2文字組み合わせた「ぅん」という表記です。

この区別についてもっと知りたい方は、琉球新報にうちなーぐちエッセイを書きました。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-133683-storytopic-129.html

(9)で読めますので、どうぞご覧ください。また、その文章は日本語で書いたのですが、自分で書いた日本語の文章をさらに、うちなーぐちに訳し、そのうちなーぐち翻訳文を、私の声で吹きこんだものが音声でも聞けます。そちらもお聞き下さい。

Date: 2010/12/01(水)


23 私の言語はおきなわ語のなかの首里、那覇混合の芝居言葉


上の写真は首里の霊御殿にて。


私にとって、うちなーぐちを学ぶ際、とても大切な事があります。

それは、教えていただいたり、聞きとりをさせていただく方は、最低でも昭和のひとけた生まれで、首里か那覇で生まれ育った方。

また、その方のご両親も首里、那覇生まれ育ちという環境で育っている必要があるということです。

そうでなければ、純粋な首里、那覇、もしくはその混合語である芝居言葉が違ったものになってしまうのです。

これも少し例をあげる必要があるかもしれません。

「我んや」という言葉を使う方がいます。これは「私は」という意味で組踊にも出てくる立派なうちなーぐちではあります。

しかし、現在首里、那覇、またその混合語の芝居言葉では使われなくなってしまっているのです。

いつ頃からなのかは知りませんが、大正12年那覇生まれの康忠先生もそうですし、大正6年首里生まれの、屋嘉比さんもまったく使いません。

他に何人かの首里、那覇の八十代以上の方に聞いたのですが、ほぼ全員がこういう言い方はしないと教えて下さいました。

けれども、「我んや、行かんどー(私は行かないよ)」と使う方がいます。

これは普通首里、那覇、また芝居言葉では「我んねー、行かんどー」と言います。

「我んや」と使うのは首里、那覇以外の地域の言葉と現在ではなってしまっているのです。

これはこれで立派なうちなーぐちではありますが、首里、那覇の地域では現在ほとんど使われないので、「我んや」というのは、首里、那覇、また芝居言葉の中では異質な言葉となってしまっているという現実があります。

この「我んや」を使うことがなぜ異質なのかというニュアンスを伝えるのは難しいのですが、あえて日本語で例えるならば、現在もし、東京生まれ育ちの女性が「俺は」と言う言葉を「私は」の代わりに使ったらどうでしょう。

NHKの女性アナウンサーや、女優さんなどがテレビで「俺は野菜が好きです」と言ったら?

おかしいですよね。

けれども、東京の北、福島県などではおばあちゃんが今でも「俺は野菜が好きだ」と使いますよね。
まあ、こういう感じです、「我んや」を首里、那覇で使うと言うことは。

はい、だからと言って、首里、那覇言葉、もしくはその混合語の芝居言葉を奨励、また正しい言葉だと主張しているのではなく、単純に、私は那覇生まれだという理由からなのです。

もし、私が国頭村に生まれていたら国頭語を学んでいたと思います。

ただ、ここで私が言いたいのは、生まれ育った場所の言葉を覚えなければいけないという意味ではなく、人それぞれ自分の生きる道があるので、自分の生まれ育った場所の言葉を学ばなくても良いだろうし、また、よその土地の人間になるのも個人の自由だと思います。

私はたまたま、那覇生まれなので、那覇言葉、また、それが首里言葉と混ざった芝居言葉を覚えたと言う事です。

また、それを私は日常使い、教えてもいます。

そういう理由ですので、現在の沖縄県で日本語の次に影響力のある、おきなわ語、その中の首里、那覇言葉、またそれが混ざった芝居言葉、これらを共通語にしようとしているのではなく、たまたま私が生まれた那覇では、その土地の言葉が、かなり力のある言葉だった、という理由で私は那覇言葉、また、その混合語である芝居言葉を究めようと努力しているだけにすぎないと言うことを、ご理解願いたいと思います。

何がな、選挙演説風義やっさー(あえて訳しません)
Date: 2010/11/28(日)


22 うちなー芝居の簡単な歴史

上のポスターは、いまでは定番になっているうちなー芝居の母の日公演。お年寄りの為の公演といっても良いのだが、本当は若者も見に来るようになってほしい。しかし、見に来ても若者は、ほとんどうちなーぐちが分らないという現状がある。


簡単にですが、うちなー芝居の歴史を書きます。そうすれば、芝居言葉が、現在共通語的になっている理由が分かりやすくなるでしょう。

1879(明治12)年に琉球王国は崩壊させられ、強制的に沖縄県が設置され、禄を奪われた士族は生活が出来なくなりました。

そしてその中の一部の首里士族は、最初は琉球王府門外不出の伝統的な「組踊(くみをぅどぅい)」を庶民に見せ「門賃(むんちんと読む。入場料の事)」を取り生活をしていました。

それがだんだんあきられてきたので、その後、日本や西洋の芝居なども参考に新しい自由な創作をし、現在のうちなー芝居の土台を築いたのです。

ですから、うちなー芝居は士族が始めたとは言え、その後、平民だった那覇の人間やその他の地域の人間もうちなー芝居の世界に入っていくようになったのです。

うちなー芝居のはじめは、「首里言葉(すいくとぅば)」のみを使ったものが琉球中を巡業して回っていて、首里言葉以外の地域の人たちも、芝居で使われる首里言葉を覚えるようになっていったようです。

ただし、明治後期から大正期に入ると、政治経済の中心地は実質的に首里から那覇に移行していったので、1879年(明治12)年以降うちなー芝居巡業をはじめた首里の方たちは、やがて那覇の人たちにおされ、昭和に入ると、ほとんど那覇の人がうちなー芝居の中心になっていったようです。

その結果、首里言葉ではじめたうちなー芝居が、那覇言葉の影響も多分に受けはじめ、どんどんまざっていき、それが芝居言葉となり、首里と那覇の言葉がまじった言葉として現在でも引き継がれています。

そして、戦後になると日本語教育がますます強烈に社会に浸透していったので、首里生まれ、那覇生まれの人たちは、純粋な首里、那覇言葉を使えなくなり、唯一、首里、那覇言葉が混合した、芝居の言葉を真似しだし、もう何が首里言葉か、那覇言葉か分からないようになってしまっていったと考えられます。

まあ、それでも、芝居言葉は立派な、うちなーぐちですので、これを話す事が出来るというのは立派なうちなーぐち話者だと言えます。

この「芝居言葉」という語は、真喜志康忠先生が新聞記者に「うちなーぐちの共通語はどこの言葉ですか?」と聞かれた際に答えた語です。

私は共通語という概念は嫌いなのですが、この「芝居言葉」は、明治12年の沖縄県強制設置以降、琉球諸語撲滅を図った日本政府の意図により、琉球王国時代のいわゆる共通語としての役割を果たしていた首里言葉にとって代わった、事実上の共通語だと言えるのです。

したがって2010年現在、いわゆる、「うちなーぐち(おきなわ語)」といわれているものは、ほぼ、この芝居言葉を指します。
Date: 2010/11/22(月)


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